東松照明の重要作『太陽の鉛筆』が赤々舎より復刻、姿を新たにしました。
この写真集を言葉にするのは簡単ではありません。とりあえず見てください、とも言い難い。ぱらぱらとめくり写真を眺めたとしても、この本に刻まれた思想、志向は易々とは読み取れないでしょう。それでも、私たちはこの『太陽の鉛筆』を手にとり目撃する必要があると思います。楽々と汲み取れる言葉や風景、手早い情報の消化に慣れてはいけない。数時間、数日もしくは数年、数十年と時間をともにすることで、気づけたり、感じられることもあるはずです。時間は有限だけれど、使い方は選べます。もし、それに気づいたのなら、この種の書物と向き合ってみてほしいです。
こう書いているボク自身もまだ、この2冊の写真集の世界に立ち入れたとは思いません。
一部を購入し、いつでも手に取り、読めるようにしたまでです。長くながく、近い場所に置いておくつもりです。
少部数ですが、当店にも入荷、販売しています。販売価格は9720円(税込)。
***
戦後日本を代表する写真家 東松照明の最高傑作、40年を経て新たに蘇る。
この度刊行する『新編 太陽の鉛筆』は、『太陽の鉛筆 1975』と『太陽の鉛筆 2015』の二冊組となります。『太陽の鉛筆 1975』は、既に絶版となって久しい、初版『太陽の鉛筆』を基本的な構成や順序は変えずに新たな装いで書籍化したものです。一方、『太陽の鉛筆 2015』は、基本的に『太陽の鉛筆』以後の既発表・未発表の作品のなかから103点の写真を選び、『太陽の鉛筆』に込められた南方への眼差しを引き継ぐ新たな編集意図によって配列し、二人の編者による論考を付したものです。 東松が晩年に「亜熱帯」というタイトルで構想していた熱帯植物のシリーズや、五度にわたるバリ島への旅など、移動と再-棲息化への鮮烈なヴィジョンに貫かれています。
この写真集を言葉にするのは簡単ではありません。とりあえず見てください、とも言い難い。ぱらぱらとめくり写真を眺めたとしても、この本に刻まれた思想、志向は易々とは読み取れないでしょう。それでも、私たちはこの『太陽の鉛筆』を手にとり目撃する必要があると思います。楽々と汲み取れる言葉や風景、手早い情報の消化に慣れてはいけない。数時間、数日もしくは数年、数十年と時間をともにすることで、気づけたり、感じられることもあるはずです。時間は有限だけれど、使い方は選べます。もし、それに気づいたのなら、この種の書物と向き合ってみてほしいです。
こう書いているボク自身もまだ、この2冊の写真集の世界に立ち入れたとは思いません。
一部を購入し、いつでも手に取り、読めるようにしたまでです。長くながく、近い場所に置いておくつもりです。
少部数ですが、当店にも入荷、販売しています。販売価格は9720円(税込)。
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戦後日本を代表する写真家 東松照明の最高傑作、40年を経て新たに蘇る。
この度刊行する『新編 太陽の鉛筆』は、『太陽の鉛筆 1975』と『太陽の鉛筆 2015』の二冊組となります。『太陽の鉛筆 1975』は、既に絶版となって久しい、初版『太陽の鉛筆』を基本的な構成や順序は変えずに新たな装いで書籍化したものです。一方、『太陽の鉛筆 2015』は、基本的に『太陽の鉛筆』以後の既発表・未発表の作品のなかから103点の写真を選び、『太陽の鉛筆』に込められた南方への眼差しを引き継ぐ新たな編集意図によって配列し、二人の編者による論考を付したものです。 東松が晩年に「亜熱帯」というタイトルで構想していた熱帯植物のシリーズや、五度にわたるバリ島への旅など、移動と再-棲息化への鮮烈なヴィジョンに貫かれています。
写真については(ネガフィルムの未発見または劣化による10枚を除いて)原ネガをスキャンしたデータを調整し作成されたデジタル・プリントを原版として使用し、その陰翳と質感を晩年の東松照明の意図に沿うように刷新しました。
『新編 太陽の鉛筆』は、『1975』と『2015』の2分冊により、歴史化された作品のもつ、写真と思想の可能性を現在に呼び出す批評的な試みであり、未来への大きな問いかけを孕んで蘇るものとなっています。
『新編 太陽の鉛筆』は、『1975』と『2015』の2分冊により、歴史化された作品のもつ、写真と思想の可能性を現在に呼び出す批評的な試みであり、未来への大きな問いかけを孕んで蘇るものとなっています。
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