猛烈に暑い夏が進行している七月、ふらふらになりつつ生きている。いろんな仕事やトラブルが重なって疲れはて、でも歩いている。渋谷で電車を降りると何もかもいやになって、人の波に吐きそうになりながら夕方をぼんやり歩いている。会社を辞めたい、旅行にゆきたい、音楽が必要だ、すきまが欲しい、地平線や水平線を見たい、おばけが住む森にゆきたい、泥水の川に浸りたい、誰とも話をしたくない、話をしなくてすむならよろこんで日本語を忘れたい、ボルネオ、ハイチ、ニュー・メキシコ、タヒチ、遠い、遠い、遠い、遠い。(「11」)
噴出する言葉、異郷の景色、とめどない想念。次々に場面が変わっていく。それら一つ一つを丁寧に拾っていくのは難しい。言葉の勢いに乗って、読み飛ばしていくしかない。管啓次郎はジャック・ケルアックのようだと思う。
店にいると、ケルアックの『路上』が読めない、という声をよく聞かされる。その時は、あれは読み飛ばす本だと応える。ガンガン、ガンガン、ページをめくって、スピードに乗っていく。読み終えて、頭に残ったイメージがそのときの『路上』だ。再読するたびに何となく断片が積み重なっていって、細かな部分が掴めてくる。あれは身体で体験するもの。頭で一つ一つ考えていると、面白味がごそっと抜けてしまう。
エッセーが「試み」を意味するのであれば、それは文と文がどんな風につながりうるのかを探りつづけなくてはならない。文や、思考や、情感や、自分の日常生活や、自分とふれあう世界の断片が、これからどんな風に並び、どんな新しい規則を開発することができるのか。それはいつだって火急の課題だ。(「39」)
管啓次郎『ホノルル、ブラジル 熱帯作文集』を読み出して気がつく。これ、前に読んでいるな。きっと同じように読み飛ばしたのだ。
それにしても、今日は暑い。どうにもならない。