冬の日はいつか暮れ、立籠める夕靄につつまれて、田原町の角に立っている高い仁丹の広告も、向側の猪料理の看板も、ネオンサインの赤い光がにじんだように薄らぎ、街灯の火影は立木の間に円くぼんやりとしている。(永井荷風)
8月31日、土曜日。目が覚めてすぐに読んだ、永井荷風「おもかげ」(林哲夫・編『喫茶店文学傑作選 苦く、甘く、熱く』所収)に引き込まれた。新吉原揚屋町の門前、竜泉寺町の牛飯屋の屋台から出てきた辻自動車(タクシーの旧名)の運転手二人が立ち話をはじめる……。
今だにぞめき歩く素見客(ひやかし)が途絶えないと見えて、それを呼び止める妓夫と女郎の声が、此処から彼方へと池の蛙のように湧起ってはまた静まる。折から手風琴(アコオジョン)とギタアとを伴奏(つれびき)にした門附の流行唄が、河岸店の間から聞えだした。
豊といわれた運転手が語り出す。「為さん。全く、おれの話をきいてくれるなァ、君くらいなもんだ」ときりだし、はじまるのは早逝した妻おのぶのこと、その妻によく似た顔の踊り子露子との出会い。小さく哀しい逸話が淡々と、情感をこめながら語られる。季節の移ろい(回想)、時間の流れ(現在)の描写をはさみつつ、朝を迎えて話は終わる。
二人の運転手は立って拍子木を鳴し歩く女郎屋の窓の方を眺めた。窓の火影は街の上の灯火と同じく、まだ夜のままの色をしているが、東雲の微光は東の空のはずれから一瞬ごとにひろがって来て、セメント造の家の壁や硝子窓ペンキ塗の看板なぞに反映して、白く塗られたものの色が、逸早く見え初める。
いやあ、なんとも。20ページの短篇になんとゆたかな色があることか。永井荷風の小説を読むのは2、3度目なのだけれど、ここまでグッときたのは初めてだ。自分の筆が立たなすぎてまったく説明が追いつかないので、気になった人はぜひ『喫茶店文学傑作選』にあたってみてほしい。いまなら新刊書店の中公文庫の棚に置かれているはず。
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