11月16日。出張、定休日をはさんで、久々の通常営業。15時の開店直後にお客さんが二組、つづけて来てくれて安心する。それぞれのお会計時にちょこちょこっと話をする。その後、ピタリと客足が止まる。Wi-Fi環境もない。外はどんどん暗くなっていく。図書館で借りてきた正津勉『つげ義春 「ガロ」時代』を読む。
18時半頃に友人たちが来るまでに、ほとんどを読み終える。
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いうならばこの年回りのつねなのであろう。ノイローゼの俘虜みたいになりがち。考えるなにもかもすべて、ただもう暗くとめどなく、面をあげられないしだい。しばしばひどく自閉しがちであった。そんなときつげ漫画がいつもそばにあった。−正津勉「あとがき」
11月17日。開店と同時に旧知の方がご来店。お久しぶりの挨拶を交わしたのち、正津勉のあとがきを読むと、「ノイローゼの俘虜」という言葉が目に入る。ああ、まさしく。二十台前半の自分はノイローゼの俘虜だった。たくさんの人に迷惑をかけた。自己中心的かつ臆病で、エネルギーだけ持て余していた。意味もなく酔っ払い、前後不覚に。正体をなくしては、翌朝のはげしい後悔に苛まれていた。
全力で時間を無駄にした。あの日々は、もうかえらない。
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11月18日。朝、図書館で借りてきた『開高健の本棚』を手にとる。開高自身の書斎風景、肉筆原稿などのヴィジュアルと選りすぐったテキストとで構成されていて、読みやすい。
全集や文庫版など、一定規格のサイズとデザインにおしこめられた本からは“匂い”がたちにくい。むしろそれは“匂い”で評価するよりは、家具や置物の一つとして評価すべき筋合いのものかと思われる。−開高健「続・読む」
ここで書かれる、“匂い”。こうした感覚を共有できる人が増えたらいい。携帯端末経由の共感、評価めいたものではなく、自身の感覚、嗅覚に正直に反応したらもっと自由になれるんじゃないかな。道具のように外付けできるものではなく、内側から湧き出してくるものを大事にしたい。
店では、ほとんど本は読めず。友人たちと話す時間が長かった。
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11月19日。『開高健の本棚』を通読して、こんな記録をしている自分が猛烈に恥ずかしくなる。もっと本を読まねば。
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生き方のスタイルを通してお互いに伝えられるまともさの感覚は、知識人によって使いこなされるイデオロギーの道具よりも大切な精神上の意味をもっています。−鶴見俊輔「ふりかえって」
11月20日。朝、鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931〜1945年』を読み終える。本編最後の一文が心に響く。「この本がものを考える手本として教えるのは、生きること、書くこと、考えることの、呼吸の間合いである」とかたる、加藤典洋の解説までふくめて大事にしたい。
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