写真:西恵里
や:はい、後半ですね。もうちょっとおしゃべりしようと思うんですが、ここから今更ですが、スペシャル・ゲストがいらっしゃいますのでご紹介します。北沢夏音さんです。
北沢夏音(以下北):ライターの北沢夏音といいます。〈PEOPLE BOOKSTORE〉では、『Get back,SUB! あるリトル・マガジンの魂』という僕の著作にまつわる展示を去年の秋に開催していただいたり、ご縁がありまして、今日は見に来ただけだったんですけど、急遽ひっぱり出されたのでちょこっと参加させていただきます。
や:なぜ引っぱり出したのかと言いますとね、もちろんライターだということや、色々物事に対する理解が深いってことも当然あるんですが、インディーということで言うとですね、僕なんかも世代というか、読んだり買ったりしてた んですけど、北沢さんが離れてからも同じ名前でずっと続いている 『Bar-f-Out!』という雑誌がありまして、それをインディーで北沢さんは当時立ち上げたわけで、ぜひ今日のテーマでなんか面白く教えてもらったり、しゃべってもらったりできるんじゃないかと思って呼ばせてもらいました。『Bar-f-Out!』って雑誌を北沢さんが作ったのは何年で、何年までやられてたんですか?
北:まず、92年の夏に創刊準備号、0号を出したんですよね。で、1号を出したのが93年の春。それから何年まで在籍していたかというと、初期のように密接には関わっていないグラデーション期間があるので微妙ですけど、リニュー アルした97年には完全に脱退してます。
V:ここにはないんですかね? 北沢さんが関わっていたやつとか。
―あります! と、植田が0号を取りに行く―
北:実は『Bar-f-Out!』について語ったり、書いたりすることは、長年封印してたんです。
や:訊かれたら答えるんですか?
北:個人的に訊かれたら、創刊前夜のこととか、ちょっとぐらいは答えたりしましたけど、基本的には一切答えてません。
や:じゃあ、北沢さんの中では思うことがあるってことですかね?
北:まあ、ありますよね。
や:当たり障りの無いというか大丈夫な範囲でお願いします。
北:自力で雑誌を創刊したいという、やむにやまれぬ気持ちは当時確かにあって。僕の個人の話になっちゃうけど、新卒で入った出版社で、自分にとって当たり前の価値観が全然通用しないという巨大な壁にぶち当たったんですね。
や:それは雑誌作りの面でってことですか?
北:うーん、それはもちろんだけど、他にもいろんな局面で納得できないことがたくさんあった。貴重な経験もたくさんさせてもらって、それは感謝してるけど、生意気盛りの若造にとってはどうにも我慢できないことが多くて、完全にアンチ・メジャーみたいな気分になって......メジャーの中にいたんで余計にパンクな衝動が湧き起こってしまったという。その頃、90年から91年にかけて、 街のクラブやライヴハウスでいろんな出会いがあったんです。桑原茂一さんが 主宰するクラブキング発行の『ディクショナリー』っていうフリーペーパーで 渋谷のチーマーを取材して、ちょっと変わったスタイルのルポを書いたり、サブ・カルチャーに興味がある若者なら大抵読んでいた『宝島』っていう雑誌でフリッパーズ・ギター(※11)の連載の構成をやったり、他の雑誌でも彼らの連載や取材に携わってたこともあって、新世代のバンドを取り上げるとき声がかかるようになって、気がつくとライター稼業に片足を突っ込んでいました。当時、時代は変わりつつあったんだけど、全体的には、音楽業界も出版業界とたいして変わらないっていうか、なんかいつのまにか出来上がったルールみたいなものがあって、そういうのがやっぱりすごくつまんないと思ったし、現行の音楽雑誌とか見ても全然面白くなくて。そんなときに出会ったフリッパーズ・ギターは、反抗心を共有できる同志だと思えたんです。それまでにも、YMO、RCサクセション、サザン・オールスターズ、山下達郎、佐野元春、ザ・ブルーハーツ等々、ショッキングな存在が現われて、日本のポップ・ミュージックに革命が起きる瞬間をリアルタイムで目撃してきたんですけど、小山田(圭吾)くんや小沢(健二)くんは、そのいずれとも違うニュータイプに見えた。僕だってまだ20代だったけど、ふたりは20歳そこそこだったから、怖い者知らずで、業界のルールみたいなものも全く意に介してないし、メジャーデビューしたのにプロのミュージシャンとしてやっていこうとさえ思っていない。彼らと身近に接しているうちに、自分もそういう意識で雑誌を作りたくなったのかな。今やらないでいつやるんだ!? っていう気持ちで、街で知り合った仲間と3人で自主制作したのが『Bar-f-Out!』だったんですよね。......個人的な動機を非常にざっくりまとめるとそんな感じです。
や:これが創刊準備号ですか? 僕も初めて見ましたよこれは。10インチサイズ。
北:そうですね、こういうのは全部意識的にやったことで。
や:だってこれ、めちゃめちゃとっぽいですよ、つくりとか。で、ここに至るまでの道筋はすごく詳しくわかったんで、この『Bar-f-Out!』を作るときに、具体的にどういうことをどういう風にしたかったんですかね? 当時の北沢青年は。
北:なんて言うのかな、例えばインタビューってありますよね。そういうのも、あえてミーティングって言い方をしてたんですよ。
や:ニュアンスはわかりますよ。インタビューではない、会合だと。
北:アーティスト様にお話を伺う的なことじゃ全然なくてね。
V:対等に、一緒に。
北:そう。ひとりの人間として、思いを伝えに行くっていうのかな。要するに、本音で誠実に語り合おう、ってことなんです。そういう雑誌が日本に無いなあと、ずっと思ってたんですよね。で、会いに行きたいと思うからには、なんらかの価値観が共有できるのではないかと思っているわけで、今では想像しづらいかもしれないけど、広告をいただくから取材しましょう、新譜のプロモーションです、っていう発想は全くなかったんです。この0号のメインのミーティングはポール・ウェラー(※12)なんですね。僕は世代的にも個人的にも、ザ・ジャム、 ザ・クラッシュ、デキシーズ・ミッドナイト・ ランナーズみたいな、パンク/ポスト・パンクのなかでも熱い人たちに思いっきり影響を受けているんですよ。 ポール・ウェラーは82年にザ・ジャムを人気絶頂で解散した後、83年にザ・スタイル・カウンシルっていう次のグループを結成して、自由奔放な活動を始めるんです。そのとき彼は24歳で、十分若いのに、さらに下の世代の才能を募って「レスポンド」っていう新しいレーベルを立ち上げた。モータウンの“The Sound of Young America”っていう有名なスローガンがあるんですけど、ウェラーはそれの英国版を作ろうという構想のもとに、“KEEPS ON BURNING”って いうメッセージを全てのレコードのジャケットやラベルに刻んだり、ザ・カプチーノ・キッドっていう謎めいたキャラクターの文章をライナー・ノーツの代わりに載せたり、モダニストとしての自身の価値観をすごくカッコよく表現していて、僕はウェラーのやることなすこと全てにグッと来て、夢中で追いかけてたんです。惜しむらくは道半ばで挫折して、結局ザ・スタイル・カウンシル もレスポンドも解散しちゃうんだけど、そういう姿勢にめちゃめちゃ影響を受けたので、彼らの志を受け継ぎたい! っていう気持ちを込めて、0号はクレジットの入れ方まで彼らに倣って作ったんですよね。形から入っているんだけど、スピリットも入ってますっていう。おこがましいけど、そんな思いだけで始めました。
植:ぼく、この0号を最初に読んだときに、内容とか、まあ、ポール・ウェラーに会ってるってこともすごいんですけど、雑誌全体からすごいもう、やりたいことをやってるっつうか、やりたいからやってるんだっていうスピリッツが感じられて。
北:もう、それしかないですね。
植:まさしく。僕が思うインディー・スピリッツというか。
北:「インディペンデント」って、経済的な自立という意味も踏まえたら、誰にとっても永遠のテーマですよね。『Bar-f-Out!』はおそらく90年代の東京で初めてDTP(※13)を導入したインディーズ・マガジンのひとつだと思いますけど、時代の恩恵に恵まれたというか、それによって経費がかなり圧縮できて、インディペンデントでもなんとか続けていける体制が整ったんです。0号はほとんどレコードショップにしか卸してなくて、それは他に販路がなかったから。つまり、日本の出版界というのは、取次というところに口座を持っていないと普通の本屋さん、つまり新刊書店には配本されないんです。だから直接取引が出来るところ以外では置いてもらえない。やっぱり実績がないとなかなか難しいんだけど、渋谷の大盛堂書店さんに飛び込みで営業したとき、応対してくれたベテランの女性がパッと見て「とりあえず20部ちょうだい」って、 即決してくれたのは本当に感動しました。でも、それは大盛堂書店さんがチェーン店ではなくて、独立系の書店で、バイヤーがその場で判断できたから扱ってもらえたんですね。普通の大手チェーン店だと現場にあまり権限がないから、そういうことはできない。だからメインの販路はレコード屋さんだったんです。 WAVE 、HMV、TOWERとかで、最初に刷った5000部があっという間に売り切れて増刷するという、予想以上に大きな反響があったんですね。時と場所を正しく得て、歓迎されたのかなって思えて、翌93年の春に季刊誌としてスタートできたんです。
b:DTP、いわゆるアドビの製品は結構インパクトがデカかったんですか? その独立してやるってときに。
北:そうですね。だから、デザイナーや編集者にとっては本当に革命で。それまでは写植代とか、いろんな経費がかかってたのが一気に軽減されて、デザイナーの手間は増えたけど、その代わり制作費は紙代と印刷代、基本的にはそれだけで済むようになったというか。
V:CDと一緒ですねそこは。
北:ええ。そういう意味では、90年代ってメディアの転換期で、DTPの後にインターネットっていう一番強力な革命が起きて、その激震は未だに続いてるんですけどね。ただ本当に、インディペンデントで何かをやるときに、コンピューターっていうのは確かにすごく助けになりましたね。
(※11)
「フリッパーズ・ギター」 小山田圭吾(Vo,Gu)と小沢健二(Gu,Vo)がメンバーのバンド。1989 年に「フリッパーズ・ギター」として1stアルバム『THREE CHEERS FOR OUR SIDE~海へ行くつもりじゃなかった~』でデビュー。1990 年に 2nd アルバム『CAMERATALK』をリリース。1991年に3rd アルバム『ヘッド博士の世界塔』をリリース後、突然の解散。現在は、それぞれソロ活動をしている。https://ja. wikipedia.org/wiki/%E3%83%95% E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%91%E3% 83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82% AE%E3%82%BF%E3%83%BC
(※12)
「ポール・ウェラー」 ポール・ウェラー(PaulWeller)は、1958年生まれのイギリスのミュージシャン。1977年にバンド「The Jam」のボーカリスト、ギタリストとしてデビュー。 1982年に「The Jam」を電撃解散した後に「The Style Council」を結成。1990年に解散した後、ソロを中心に活動中。とは、wikipediaより。それはあくまで参考として、本文中で北沢夏音さんが語ってくれている、ウェラーの姿勢を刻んでほしい。https://ja. wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D% E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3% 82%A6%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83% BC
(※13)
「DTP」 DTP(Desktop publishing、デスクトップパブリッシング)とは、日本語で卓上出版を意味し、書籍、新聞などの編集に際して行う割り付けなどの作業をパーソナルコンピュータ上で行い、プリンターで出力を行うこと。https://ja.wikipedia.org/wiki/DTP
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