2026/06/06

6/6 店日誌

この本のなかで、草森さんが、《サブ・カルチュアなんて無かった。仮にあったとしても、政治や資本に全部絡めとられていく。》と言っているんだけど、本当にそうだと思いましたよ。七〇年のあの頃、若者が考えたこと、やろうとしたことが、今となってみるとほとんどが商業化して、日常化している。(本間健彦)

サブカルチュアに属した新劇や純文学の停滞は当然としても、政治や経済すらも、サブカルチュア化し、空洞化しはじめている。あたかも私が王道のように、それまで無視されたサブ文化を正面に据えて啓蒙してきたこと、ただ世界規模の愚民化に手を貸したに過ぎない。(草森紳一)

6月6日、土曜日。北沢夏音『Get back,SUB! あるリトル・マガジンの魂』を数年ぶりに読み返して、引き込まれる。もともと付箋が貼られていた箇所はもちろんなのだけど、時勢もあってか1973年のオイル・ショックに関して書かれたところが気になった。特に草森紳一の跋文のなかで上記引用部につづく一節───「オイル・ショックとその後の世の変化に対し、そう象徴化として考えるようになっていた。マクルーハンの指摘が、ロコツに現実化してきたのだ。世は不景気だったが、グローバル化の準備が着々と準備していた」。

最初のオイル・ショックから33年が経った現在にも似たような状況があるのだろうか。表面化されない領域で何が起きて、誰が暗躍しているのだろう? 過去の事象から学べることがあるのは間違いない。今こそ1973年が検証されるべきなのでは……そう感じている人は多いのかな。とりあえず、坪内祐三『一九七二 「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』を読み直してみる。

思いどおりになるかどうかわからない未来への投資より、思い出の反芻は目減りのしにくい娯楽だ。ベスト盤のCDが売れるのも道理である。この境地に辿り着けたら大成功だ。(ナンシー関)

ナンシー関の書く「思い出の反芻」がビッグ・ビジネスになって久しい。かつての人気バンドの再結成、大規模フェス、どれもこれもが「思い出の反芻」に絡めとられている。そういう自分も? どうしたって現行の音楽に付いていけてないわけで、反芻行為に陥っているのが実情なのである。

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そろそろ梅雨入りなのかな。先週よりもぐっと温度がさがって過ごしやすいけど、寒暖差(涼熱差と書きたい)が大きくて、どうも気持ちが落ち着かない。こういうときは無理せず、動きを抑えておくのに限る。ぐだぐだと日誌を書いて、くたびれているのは馬鹿らしい。

ではでは、開店! オンライン・ストア〈平凡〉もよろしくどうぞ〜。

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