例年のがんばりを「1」とすると、今年は「3」ほどがんばる。はずだった。年頭の予定では。
しかし私は、がんばればがんばるほど、大抵その「がんばり」がさらなる「がんばり」を必要とする、いわば「がんばりの肥大化」を生むという法則をすっかり忘れていた。がんばればがんばるほど、「がんばり」自体がブラックホール化し、手当たり次第に別の「がんばり」を吸い込んで思った以上に規模が拡大してしまう。そういうことが、これまでに何度もあった。
それなのに、私はそういうことをすっかり忘れていた。というより敢えて考えないようにしていた。試したかったのだと思う。はたして自分の「がんばり」は、今でもまだそれだけのちからがあるのかということを。
結局、今年は「3がんばり」のつもりが、体感で、その2乗の「9がんばり」もする羽目になってしまった。
例えば勤め先の仕事。元はかつての「一般職」の名残の、低リスク低尊厳低賃金の職種だったはずが、勤続15年を経るうちにいつの間にかベテランとして重宝されるようになっていた。そこに組織再編も加わってこの秋、期せずして役職がついた。そうならない選択もあるにはあったが、私は打診を呑んだ。そして晴れて、当初の予定にはなかった「がんばり」が求められることになった。
新規部署としてオフィスに誕生した私の所属するチームは、新たな仕事を片っ端からもらい受け、急に毎日が慌ただしくなった。慣れないタスクをいくつこなしても、未処理の仕事は一向に減らない。それどころか無限に増えていく。ここでも、一つの「がんばり」がさらにがんばる必要を呼び、それはかたまりになって日ごとに巨大化していった。
そしてある日弾けた。
残業中、私はオフィスで人目も憚らず声を上げて泣いた。「もっとがんばれるようがんばります!!!」それでなんとなく、部署内に渦巻いていた熱気がしずまり、無限増殖を続けていた「がんばり」の要請は一旦勢力を落とした。依然としてそれなりにがんばる必要はあったが、一応無事仕事納めを迎えることができた。
「日常」は意外と「賭け」でできている。昼食は米か麺か。傘を持って行くか行かないか。この語尾でいいのか。だから生きていて飽きない。
だけどときどき、私はもっと大きな賭けに出たくなる。それまでコツコツ積み上げた賭け金をすべてベットして、大博打に打って出たくなる。伸るか反るか。自分の「がんばり」は果たして有効なのか。それを試したくなる。
結果、今年私はこの賭けに勝ったのだと思う。冬休み初日、正午前になってもまだ起き上がれず、ベッドの中から部屋の天井を見上げてそう思う。何をどう賭けたのか、ここにすべてを書くことはできないけれど。
梶谷いこ(かじたに・いこ)
著書に『和田夏十の言葉』『細部に宿る』『あったらいいなはなくてもへいき』『恥ずかしい料理』など
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