グレイトフル・デッドのライヴの場に身を置いていると、実にそうした各自の“解釈”はどうあれ、まるで入浴しているようなくつろいだ気分になるのであった。“解釈”したいやつはし続ければいいし、思考回路を切りたいやつは切りっぱなしにすればいいし、瞑想したいやつはすればいい。三万人や四万人の聴衆を前にして、グレイトフル・デッドは、〈やりっぱなし〉という感じなのだ。(湯浅学)*1
9月8日、月曜日。うーん、すごい。湯浅学の書くものを追っていると、うなり、おどろき、わらわせられる。真似できるわけないし、なぞれるわけもないのだが、何でこんな風に書けるのか? どうしてそこに目を向けるのか? なんて感じで好奇心が沸いてくる。ああ、オレももっと沢山のレコードが聴きたい。紹介される本も読みたい。限られた時間のなかで、自分にやれることはやっておきたい。参った!『音楽を迎えにゆく』は凄い本である。
要するに、音盤すべてを平等に聞く、ということ。音盤全部を平等な権利として認めるというのは、評論活動の基本だとおれには思えるんだよ。(湯浅学)*2
これも簡単なことじゃない。どんな風体か、誰に紹介されたか、どこで売ってたか、なんて要素ありきで音盤を区別しているようじゃ本質には迫れない。「世界の快適音楽コレクション」に触れてゴンチチ風情を真似することなど野暮の極み。あの人たちが、いかに難しいことを簡単そうにやってるか。聴取する側も試されている……なんて書くと大袈裟かな。まあ、普通に楽しむのも大事だとは思うのだけど。
白と黒、善と悪、線をひいてぱっきりと分けられたらそりゃ楽だろう。混迷極まる世界情勢、社会問題の一つ一つに自分なりの答えを出すのは難しい。だからと言って声のでかい奴、事象を単純化して二者択一を迫ってくるような体制には従いたくないのである。湯浅学の本を読んでいると、その(自立と抵抗の)ための足腰が鍛えられる。
抵抗とは社会的権力の横暴やいわれなき差別に対するだけでなく、それを知らぬ間に支えてしまっている自分自身にも向けねばならない、という前提は外せない。(湯浅学)*3
今日も通常営業。オンライン・ストア〈平凡〉にもご注目を。
(*1)「心地よくだらしない緊張感の宴」(『音楽を迎えにゆく』p.200) / (*2)「ロックは音楽雑誌。」(『音楽の本の本』p.137-138) / (*3)「抵抗の音楽史 レコード倫理とはなにか」(『音楽を迎えにゆく』p.104)

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