ひとつ良ければすべて良し、というのはいい。
“伝説のイラストレーター”河村要助さんが、79年の夏に『ミュージックマガジン』に寄せたエッセイはこんな言葉で始まる。音楽ファンにとって、河村要助さんといえば「サルサの人」だ。「ひとつ良ければすべて良し」とはもちろんサルサのこと。「ためしにひとつのアルバムを手にしてみて、これはいいぞ、というのであれば目をつむってアルバムを選んでいただいて大丈夫。同質のサムシングを、そこに必ず見つけだせるはず。だから、ますますいい」というわけ。
なんと粋で、エスプリに富んだ言葉だろう。知り合いのDJは「クンビアってどれ聴いても同じだよね」とスカのDJに言われたそうで、「おめーに言われたかねーよー」と憤慨していた。話を聞いた僕も「スカのDJが言うか」と彼女以上に憤慨した。でも河村さんはそれを、ひとつ良ければすべて良しというのは素敵じゃないか、という。「この音楽の良さを知るために、血まなこになって隠れたアルバムを探す必要はないのだから、これは大したことである。サルサの現況はこんな具合だ。隅から隅まで、ずーっと充実しているうれしさに、気がつくと我を忘れていた」。
ほれぼれする。たかだか「音楽を聴く」ということに、何度も転んで何度も起きあがって向きあってきたのでなければ、こんなふうに言えない。
2024年を振りかえってみると、こんな具合に、音楽をめぐって書かれた言葉とふたたび出会いなおしたこと、それがいちばんの出来事だった。こんなことになるとは思ってもみなかった。ある時期欠かさず買っていた『ミュージック・マガジン』に最後はほとほと嫌気がさして、『ブラック・ミュージック・リヴュー』や『レコード・コレクターズ』、その他さまざまな音楽雑誌もまとめてゴミ収集に出したのはもう20年以上も前のことだ。ものすごく勉強させてもらってもちろん感謝もしているけれど、音楽を聴くのにもう言葉は要らない、当時はそんな気持ちになっていたように思う。以来、音楽雑誌を手に取ることはほぼほぼなくなった。ここ数年は老眼が快調に進んで、音楽関係に限らず活字から離れる一方だったことを思えばなおさらだ。
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きっかけは、奥渋谷の人気アフリカ〜クレオール料理&熱帯音楽酒場ロス・バルバドスの店主、ダイスケさんだった。ダイスケさんは、日本生まれ、いや、千葉の市川市生まれのルンバ・コンゴレーズ・バンド、オルケストル・ヨカ・ショックのベーシストでもある。ルンバ・コンゴレーズとは、アフリカの中央部にあるコンゴ民主主義共和国(当時のザイール共和国)発祥のダンサブルなポピュラー・ミュージックだ。のちに日本におけるコンゴ音楽の伝道師のひとりとなる市川市在住の音楽ライター、神宮正美氏のもと、ロック喫茶にたむろしていたセックス・ピストルズやフリクションやボブ・マーリーに夢中の不良少年(?)たちによって結成された。コンゴ一帯で広く用いられているリンガラ語でオリジナル曲を作詞作曲し、歌い、踊り、演奏した唯一無二のバンドである。
ダイスケさんと一緒にルンバ・コンゴレーズのDJイベントをやったりしているここ数年の間に、この不世出のバンドのキャリアを追ってみたい、それと同時に、コンゴ音楽をはじめとするアフリカのポピュラー音楽がどのようにして日本に入ってきたのかということを自分なりに調べてみたいと思うようになった。
あるとき、バンド結成当時の話を聞かせてもらっていると、「『ミュージック・マガジン』1981年2月号にコンゴ音楽の記事が」とか「83年に『ブルータス』が4月号 でアフリカ特集を組んで」とか、具体的な誌名が具体的な月号をともなって飛び出してくる。あわててメモを取り、ネットの古本屋で探してみると、その通りの雑誌がヒットした。10代の頃から音楽の聴き方がブレていない人の記憶力をナメてはいけない。その他、1980年前後の、アフリカやカリブ音楽関係の記事が載っている雑誌(結局『ミュージック・マガジン』や『ブラック・ミュージック・リヴュー』になるのだけれど)を探していると、本人はそんなことをおくびにも出さなかったが、若き日のダイスケさんが寄稿している『ブラック・ミュージック・リヴュー』も見つけてしまった。それらを適当に見繕って買って、読んでみることにした。
これが、べらぼうにおもしろかった。
『ブルータス』の特集「黄金のアフリカ」は圧巻だった。写真の美しさ、鮮やかさ、アフリカの景色のしなやかな躍動感と眠気を誘うような長閑けさのコントラストに目を奪われた。企画のスケールと熱気、記事の濃度とヴォリュームに圧倒された。ナイロビの生き生きとしたナイトライフの様子が、ケニア盤の7インチ(!)とともに紹介されているのに、なにより驚いた。
『マガジン』の81年2月号では、文化人類学者の岡崎彰さんが、アフリカから直に持ち帰ってきたザイール音楽のレコードをズラリと紹介していた。「黒い予言者たちの音楽〜アフリカ、ザイールの多彩なサウンド」と題されたその記事 には、いまネットで探してみても見あたらない、フィールドワークの調査をしているうちに現地の音楽に夢中になってしまったという岡崎さんならでは情報が満載だった。
『ブラック・ミュージック・リヴュー』1985年5月号のダイスケさんの寄稿文からは、ザイールの首都キンシャサを初めて訪れたときの興奮とうれしさがビシバシと伝わってくる。なんと、当時キンシャサで人気実力共にナンバーワンだったオルケストル、グラン・ザイコのステージに招かれ、一緒に演奏しているのだ。当時のキンシャサの最新スタイルなのか、それとも市川のヤンキースタイルなのか、バッチリ剃り込みの入った頭にグラサン姿で演奏している写真の中のダイスケさんはとても楽しそうだ。
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この時代の、雑誌ならではのおもしろさをあらためて実感する。レコード・ジャケットのリヴュー・コーナーがある。書評やコラムの鋭さ、キビシさには正直ときどき怖気が立った。読者投稿欄には、音楽批評家やミュージシャンによる長過ぎる反論が律儀に掲載されていた。そういえば『ブラック・ミュージック・リヴュー』の細かすぎるニュース欄がお気に入りで、まずはここから読みはじめていたものだった。ついにロバート・ジョンスンの生前の写真がみつかった!というニュースのあとには、カリブ音楽のレコードに力を入れていたお店が閉店したという一報。しばらく後の号には、やっぱりロバート・ジョンスンの写真はガセだったいう報告に並んで、地方の高校生ブルース・バンドから演奏を録音したテープが編集部に送られてきたといい、お礼と「頑張って」の一言。そしてしばらくするとまた、今度こそ本物だろうというR・ジョンスンの写真の話題。クラブ・イベントではなく、トークショー込みのレコード・コンサート(試聴会)、ファニア・オール・スターズのライヴのフィルム上映会などが活況を呈していた様子が伝わってきて新鮮だ。ダイスケさんから聞いたその頃の話の中でも、何度聞いてもココロトキメいてしまうエピソードに、あるアフリカのレコード・コンサートで、前述の岡崎彰さんのトークの最中、あの村八分の山口富士夫さんが酔っぱらって乱入し、ステージ上で岡崎さんと突然殴り合いを始めたというのがある。中村とうようさんや神宮正美さんたちが慌てて、必死にとめに入ったという夢のような豪華キャストの一幕だ。このイベントの告知をニュース欄に見つけたときは思わず小躍りしてしまった。
それからというもの、1970年代半ばから1980年代半ばあたりまでの『ブラック・ミュージック・リヴュー』と『ミュージック・マガジン』を手当り次第に買い込んで、夢中になって読んでいる。そこは、知っているようで知らない世界だった。わかっている気でいたが、想像していたのとはずいぶんと違う世界が広がっていた。
いまはだたひたすら記事を読み、河村さんのような書き手の文章にメロメロになってため息をつきながら、アフリカやカリブのポピュラー音楽が日本に入ってきた経緯をソートアウトして年表をつくり、自分なりにまとめるのに勤しんでいる。ノートに書きだす作業を楽しみながら、いったいこの開放感はどこからやってくるのだろう、それを見極めてみたいという気持ちが何度も湧いてくるのだけれど、それについてはいまの作業が一段落してから、またあらためてじっくりと向き合ってみたい。
冒頭で触れた河村要助さんのエッセイのタイトルは「サルサは捨て身でつかみたい」という。
そう、捨て身でつかんでみたいのだ。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
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